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季刊誌―エルベテーク

2011年 夏季号 本はみんなの教室 『君たちはどう生きるか』

道徳にこめられた気持ちが成長を促す

■紹介する本 『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著/岩波文庫)

 幼い状態にとどまらず、成長につれて家庭や学校、社会について考え始める子どもの生き方について一考してみましょう。


 『君たちはどう生きるか』の中では「立派な人間になること」「役に立つ人になってくれること」など、子どもの使命感についての指摘がたくさんあります。いま、「当たり前のこと」と遠ざけたり、「いろいろな考え方がある」とごまかしたりせずに、身近な道徳についてまじめに考える時間をもつことが私たちに求められているように感じます。「少年よ、大志を抱け」という格言があるのですから、「少年よ、道徳的であれ」もあっていいのではないでしょうか。

 エルベテークは特に道徳教育を前面に打ち出しているわけではありませんが、どんなものであれ人間が関わるかぎりそこに約束事があり、子どもたちがその存在を知り、覚え、思い出し、使いこなせるようにと学習を通して繰り返し教えています。

 道徳とは、過去の人々の暮しや教えを手本に「してはいけないこと」と「しなくてはならないこと」という約束事の区別をはっきりさせ、それをいまの生活に応用することではないでしょうか。

 「君がぐんぐんと才能を延ばしていって、世の中のために本当に役に立つ人になってくれることを!」(137ページ)

 ずばり、道徳です。しかも、「国を愛せよ」とか「故郷を愛せよ」といった威勢の良い道徳というよりも、身近な生活に源を発し、みんなが自分自身の成長のプロセスで規範とするような常識・見識に近い道徳といったほうがいいでしょう。

 ところで、巻末に社会学者の丸山真男さんが書いた回想が添えられています。その文章の中に「モラーリッシュ」という言葉が見当たります。友人であった丸山さんが吉野さんの人柄を指して用いたものですが、この本全体を通したキーワードのようにも思えます。

 吉野さんは、この『君たちはどう生きるか』では一人の哲学者のようですが、岩波書店の雑誌『世界』の最初の編集長として知られています。また、数々の名作が網羅された『岩波少年文庫』を最初に送り出した編集者でもあ

 責任をとるために書いたコペル君の手紙が再び4人の友情を取り戻すのです。

 友人を裏切ったことへの後悔の念が高まったコペル君に対して叔父さんは「自分自身そう認めることは、ほんとうにつらい。だから、たいていの人は、なんとか言訳を考えて、自分でそう認めまいとする。

 しかし、コペル君、自分が過っていた場合にそれを男らしく認め、そのために苦しむということは、それこそ、天地の間で、ただ人間だけが出来ることなんだよ」(255ページ)と伝えます。

 「雪の日の出来事」から「凱旋」までの章は、コペル君の後悔と悩み、そして再生の物語です。ある雪の日、上級生からいじめられた北見君と彼を守ろうとした水谷君と浦川君。しかし、コペル君は仲間であると約束していたにもかかわらず、助けに行くことができませんでした。

 「生み出す働きこそ、人間を人間らしくしてくれるのだ。これは、何も、食物とか衣服とかという品物ばかりのことではない。学問の世界だって、芸術の世界だって、生み出してゆく人は、それを受取る人々より、はるかに肝心な人なんだ」(140ページ)

 そして、生産と消費の関係に触れながら、働く姿、つくる姿の大切さを指摘します。

 「貧しい人々をさげすむ心持なんか、今の君にさらさらないということは、僕も知っている。しかし、その心持を、大人になっても変わらずに持ちつづけることが、どんなに大切なことであるか、それはまだ君には分かっていない。だが、僕はこの機会に、その大切さを君に知ってもらいたいと思う。……(中略) ……。今の世の中で、大多数を占めている人々は貧乏な人々だからだ。そして、大多数の人々が人間らしい暮しが出来ないでいるということが、僕たちの時代で、何よりも大きな問題となっているからだ」(131ページ)

 叔父さんは、コペル君と浦川君の二人が「素直な、やさしい性質」をもっていたことを評価します。

 「運動事は何をさせてもカラッ下手な、あの浦川君が、長い箸をこんなに器用に使おうとは、今の今まで知りませんでした。油鍋の前に立っている浦川君は、すっかり商売人です」(107ページ)
 
 コペル君は学校の授業の進み具合を教えました。そして、浦川君からお父さんが家を離れている理由も聞きました。鯛焼きも食べました。病気で寝ている若い職人の看病をしている様子も見ました。どれもこれもコペル君にとっての発見です。

 「貧しき友」の章は浦川君の話です。欠席が続いた浦川君を気遣ってコペル君は見舞いに行きました。仲間はずれにされることの多い浦川君には友人がいなかったからです。コペル君は狭い通りに小さな店舗が軒を並べる商店街を歩いて、豆腐屋に行きました。そこが浦川君の自宅です。エプロンをかけた浦川君が現れました。

 実は、病気ではなく、豆腐屋の手伝いのために学校を休んでいたのでした。コペル君がそこで見たものは、手馴れた段取りで豆腐を揚げ油揚をつくる姿でした。体操がまるでだめで鉄棒の上に上がることすらできない浦川君のもうひとつの姿をコペル君は発見したように感じました。

 さらにコペル君は自分の発見を率直に広げ、「人間分子の関係、網目の法則」という考えにたどりつきます。粉ミルクの缶に描かれた図柄をきっかけに、その粉ミルクがつくられ、日本に運ばれてくるまでの社会の仕組みや人々の労働を想像したのです。「だから、僕の考えでは、人間分子は、みんな、見たことも会ったこともない大勢の人と、知らないうちに、網のようにつながっているのだと思います」(87~88ページ)とコペル君は考えを整理します。

 自分を中心に考えがちなのが人間の習性です。しかし、それを脱して社会の動きや周りの人間の存在に配慮し、それを前提に自分の考えや行動を組み立てる、それはまさしく人間の成長を意味します。社会の有り様に目が向かい始めた男子の発見は、天文学者のコペルニクスが天動説に対抗して地動説を唱えた姿を思わせるものがありました。そのため、コペル君と呼ばれるようになったのです。

 「大人になるとこういう考え方をするというのは、実は、ごく大体のことに過ぎないんだ。人間がとかく自分を中心として、ものごとを考えたり、判断するという性質は、大人の間にもまだまだ根深く残っている。いや、君が大人になるとわかるけれど、こういう自分中心の考え方を抜け切っているという人は、広い世の中にも、実にまれなのだ」(26ページ)

 コペル君という変わったあだ名がついた経緯について冒頭から少しずつ語られますが、それはひとつの発見と結びついています。雨の降る秋の日の午後、コペル君は叔父さんと一緒にデパートの屋上から都会の賑わいを見ていました。そのうち、社会には実に多くの人が生活していること、そして自分自身に関しても「見ている自分」「見られている自分」「それに気がついている自分」「自分で自分を遠く眺めている自分」といったいろんな自分があることに気づいたのです。そして、人間は分子のようなものだと感じました。それに対して叔父さんは「ものの見方について」という、こんなメモを贈ります。

 「立派な人間になること」を願う叔父さんは、著者の吉野さん自身であることは言うまでもありません。


 「肝心なことは、世間の眼よりも何よりも、君自身がまず、人間の立派さがどこにあるか、それを本当に君の魂で知ることだ。そうして、心底から、立派な人間になりたいという気持を起こすことだ。いいことをいいことだとし、悪いことを悪いことだとし、一つ一つ判断をしてゆくときにも、また、君がいいと判断したことをやってゆくときにも、いつでも、君の胸からわき出て来るいきいきとした感情に貫かれていなければならない」(56ページ)

 「君も、もうそろそろ、世の中や人間の一生について、ときどき本気になって考えるようになった。 だから、僕も、そういう事柄については、もう冗談半分でなしに、まじめに君に話した方がいいと思う。こういうことについて、立派な考えをもたずに、立派な人間になることは出来ないのだから」(51ページ)

  コペル君というあだ名をもった中学1年生の男の子と3人の友人たちの、秋から次の年の春にかけての生活が綴られていきます。裕福な親のもとで育つ水谷君、頑固だけれど愉快な北見君、みんなからいじめられるもののやがてコペル君たちの親友になる浦川君。その4人の物語です。そして、お父さんを早くに亡くしたコペル君の後見人的な存在である叔父さんが節目節目で考え方のヒントやアドバイスを贈るという構成になっています。

 『君たちはどう生きるか』とはずいぶんかしこまった書名です。しかし、読み始めてみればわかるように、まるで青春小説を読み進むような、面白さと発見でいっぱいです。

 以前、このコーナーで紹介したエーリヒ・ケストナーの名作『飛ぶ教室』と通じ合う内容・視点となっています。子どもから大人への成長の意味をじっくりと考えさせてくれる日本の古典です。

 今回は、人生の入り口に立ったばかりの中学1年生の子どもたち(もう子どもとは言えないかもしれませんが…)4人の行動や思索を通して、生きること育つことの意味を問いかける吉野源三郎さん(1899~1981年)の『君たちはどう生きるか』(1937年刊行)を紹介します。


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