『自閉症の子を持って』(新潮新書)の著者・武部隆氏(時事通信社勤務)よりご寄稿いただきました。
退屈しない毎日
障害を持つ子の親として生きてきて、「良かった」と思える点はたくさんある。
まず、人生に退屈を感じることは絶対にない。
自分の子どもの成長が、他の子どもたちと違っていることを、すんなり受け入れられる人はそれほど多くないだろう。でも、いつかは受け入れなくてはならない。受け入れ方はそれぞれかも知れないが、その過程で誰もが人としての器を成長させていく必要がある。 それを「葛藤」と呼ぶのはいささか格好が良すぎるような気もするが、要するに障害児を育てていくことで受けるストレスに耐えるため、図太くならなければ生きていけないのだ。 医療機関や学校、あるいは役所の担当者から心ない言葉を投げ掛けられたり、時にはむき出しの悪意をぶつけられたりもする。自分一人だったらヘコんでもいられるが、仕事をして生活費を稼ぎ、家事をこなして家族を支える役目を負っているのだから、いちいち落ち込んで立ち止まってはいられない。
子どもに障害があると分かってから十四年、私も妻も退屈を感じたことは一度もない。問題は、それを幸福だと思うか、不幸だと感じるかだろう。どうせ逃れられない運命なのだから、ここはポジティブに「退屈を感じない人生はしあわせだ」と思った方がいい。
二つ目は、他人の善意にとても敏感になることだ。 去年の夏、自宅の給湯装置が壊れ、およそ二週間、お湯の出ない生活を強いられた。 暑い時期なので、できれば毎日お風呂に入りたい。幸いにも徒歩五分ほどのところに銭湯があった。でも、子どもの奇妙な行動は、好奇の目で見られるに違いない。嫌だなあと思いながら、子どもの手を引いて番台脇ののれんをくぐり、脱衣所に入った。 服を脱ぎながら大声を上げたり、湯船の中でお湯をはね散らかしたりする子どもの姿は、さぞや冷たい視線を集めるだろうと思っていたのに、十人ほどいた男湯の客は私たちが入浴していた二十分間、誰もが見て見ぬふりをしてくれた。 給湯器の修理が終わるまで、その銭湯には毎日通った。でも、好奇の目やとがめるような視線を投げ掛ける客はなぜか一人もいなかった。通い初めて三日目のこと、脱衣所で着替えている最中、子どもの手が隣のお客の体に触れてしまった。慌てて「ごめんなさい」と声を掛けた背中を見ると、昇り龍の彫り物がくっきりと浮き出していて肝を冷やしたが、その人もこちらには目を向けず、「いいってことよ」と言わんばかりに軽く手を振りながら、洗い場に入っていった。 障害児を抱える家族にとって最もありがたいのは善意あふれる無関心、見て見ぬふりをしてくれることだ。的外れな支援の手を差し伸べられるより、「別に隣にいても構わないよ」と場所を空けてくれる優しさが、何よりも心にしみる。 幼稚園で入園を断られたり、小学校の担任から「なぜ、こんな子を連れてくるの」となじられたり、病院で医師から診療を拒否されたりしたこともあって、人間不信に陥った時期もある。でも、そうした経験があったからこそ、一見ヤクザ風のお兄さんが見せてくれた優しさに、こんなにも救われた気持ちになるのだろう。
三つ目は、子どもの成長をじっくり堪能できる点だ。 障害児の成長は、健常児に比べると遅い。 「なぜこんなことができないの」と言いたくもなるが、できないのだから仕方がない。それでも適切な療育を受けることで、ちょっとずつ「できる」ことが増えていく。 親は見過ごしがちだが、子ども自身も「できない」ことに大きなストレスを感じている。「できない」が「できる」に変わる喜びは、子どもに自信を与え、それが落ち着きにつながり、次の学びへの意欲を生む。 エルベテークの門を叩いた十四年前、子どもと面談してくれた先生の「お子さんには、できることがたくさんあります」という言葉が、今も耳から離れない。その時は半信半疑だったが、学習を通じて人の話を聞き、不快なことにも耐える力を身に付けていくわが子の姿を見ていると、どんな子どもも「自然に」大きくなるわけではなく、成長するためにたゆまぬ努力を続けていることが分かる。 子どもの努力を目の当たりにすれば、親がへこたれてはいられない。エルベテークでの学習は、子どもを通じて親である私たちを成長させてくれたと感じている。 十四年前、子どもの成長に不安を感じ、医療機関を受診したが、そこで告げられたのは「障害がある」ということだけで、それをどうすれば克服できるのかの処方箋を渡されることはなかった。市役所に相談しても「保育園や幼稚園で集団生活に触れれば、そこから刺激を受けて変わっていくかも知れない」という無責任で根拠のないアドバイスをされるだけで、何の救いにもならなかった。 エルベテークでの学習に、子どもが初めからなじめたわけではない。当初はレッスンの時間が近くなると、学習道具の入ったカバンを隠してしまうような抵抗も見せた。しかし、学習を通じて「この世は自分の思い通りならないことばかり」であることを理解する一方、「努力すれば結果が出る」ことも体験し、学ぶ喜びを感じられるようになった。ささやかではあっても、成功体験を積み重ねていくことが、子どもには何よりも必要なのだ。
障害児とともに生きていて感じる四つ目の良い点は、努力は必ず報われると信じられるようになったことだろう。何をもって「報われた」と思うかは人それぞれではあるが、少なくとも私は、子どもの努力する姿を見るたびに、報われたと感じている。